向半四郎山(1118m)〜半四郎山(1126m)〜広見山(1187m)

【前書き】
 掲示板のすみっこさん紹介のこのコースは、島根県益田市匹見の山奥の山ですが、非常に展望が良いのが特徴です。
 この南北に走るコースの谷を隔てて東側には恐羅漢山〜旧羅漢山、さらに奥に十方山があります。
 この山域に入るには、林道よりも狭い国道488号線を走らなければなりません。場所によっては、欄干もなく、片側は断崖絶壁です。この国道は正直言って、あまり走りたくない道路です。

【年月日】’08.9.20(土)
【コースタイム】
(移動)北九州出発(5:40)→(中国自動車道)→吉和IC(8:20)→(国道488号)→半四郎山登山口(9:10)
(登山)半四郎山登山口(9:20)→向半四郎山(10:20-25)→半四郎山(10:45-55)→広見山(11:45-12:00)
     →広見林道(12:45)→半四郎山登山口(13:45)
(移動)登山口(14:00)→(国道488号) →(県道312号)→日原(15:00)→小郡IC(16:25)→帰着(17:50)

【費用】高速代:行き\4,800+帰り\2,950=\7,750    ガソリン代:約450km分
【同行者】単独

【写真と解説】

 登山口から登り始めると直ぐに左側に石垣が現れます。昔、人家があったのではないかと思います。
 ちょっと昔は、田舎はどこも自給自足に近い生活ですから、ここでもほとんど生活には困らなかったと思います。
 現代文明に慣れることによって不便を知り、過疎化が進行。

 帰りに撮った甲佐家屋敷跡の碑です。昭和45年に集落ごと移転したのでしょう。
 結構、立派な家が建っていたようです。因みに私が生まれた家も茅葺でした。

 登山口からちょっと登った所で巨大なガマ蛙?が日向ぼっこをしていました。動きません。
 地面をドスンと登山靴で踏んだら、ひょこっと少しだけ動きました。

 杉の植林帯を抜け出て暫くすると向半四郎山の頂上です。
 写真右が半四郎山で中央奥が広見山です。
 ここからは360度の展望が得られます。ただ、この付近の山はあまり登っていないので、ほとんど山の名前は分かりません。
 山座同定には普通20万分の一地形図を使っているのですが、この付近はちょうど地図の変わり目で、かつあまり来ることがないと思っていたので最初から持っていません。東北東に旧羅漢山と恐羅漢山。後、遠目に分かったのは青野山と十種ヶ峰。
 本当はゆっくりしたかったのですが、昼から天気が崩れるかもしれないとの予報なので先を急ぐことにしました。

 半四郎山に着きました。写真の向半四郎山からここまで約20分です。高低差もあまりないし、歩きやすいです。

 旧羅漢山と奥に恐羅漢山です。雲の陰で山肌が暗くなっている部分があります。
 写真左の台地がカマのキビレでしょうか。その奥に亀井谷から恐羅漢山で通った台所原があるんでしょうか。

 広見山に登る途中で振り返ると遠くに青野山と十種ヶ峰が見えていました。
 帰りは国道9号で青野山の横を通って帰ります。

 広見山山頂です。最後に広見山からもう一度360度の展望が楽しめるのかと思っていたら、西側は全く駄目です。
 ちょっとがっかり。本当は、西側の春日山や先週登った日晩山を確かめたかったのです。
 ここまで誰にも会いませんでした。私が登り始めるとき、登山口に親子連れが来たので、後ろから来るか、またはどこかで交差するかと思っていたのですが、結局、広見山から下山中に会いました。今日は、私以外に下関、山口、広島ナンバーの車が止まっていましたが、皆さん、広見山→半四郎山の方向に歩かれていました。展望が、段々に拡大していく過程を楽しむなら広見山→向半四郎山の方が良いかと思いました。

 広見林道です。広見山登山口から半四郎山登山口まで4kmちょっとあると思います。急ぎ足で1時間でした。渓流には魚も泳いでいます。
 幅員3.6mとのことなので、国道488号の狭い部分よりもこの林道の方が良いくらいです。
 今回はその国道488号で対向車が多くて往生しました。朝はいきなり大型ダンプ2台と出会い、私がバックして離合。
 帰りには、数台と出会いましたが、その内の1台はスピードを出していたので、危うく正面衝突するところでした。
 その488号線には裏匹見峡の遊歩道があるので一度歩いて見たいと思います。

【後書き】
 匹見地方はやはり山深いです。
 今年の2月にスノーボーダー達7人が国設恐羅漢スキー場の山頂から雪の多い方に向かううちに方向を誤って広見林道側に降り、国道488号沿いの旧広見小学校の廃屋の中で2晩を過ごした遭難騒ぎの現場がここです。
 調べてみると広見集落が移転した直接の原因は昭和38年の大雪にあったようです。雪で3ヶ月間集落は孤立したそうです。戦前の最盛期には広見小学校には80名も生徒がいたそうなので、かなりの数の人家があったのでしょう。

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